大本山大徳寺様冊子「紫野」第50号に執筆の記録

懐かしいものが出てまいりました。
「紫野」は、大本山大徳寺様が発行されている冊子で、第50号は平成29年(2017)1月1日に発行されました。
この頃は、まだ、京都女子大学大学院に在学中でした。

記事の内容を文字に起こして転記いたしました。
約400年以上前から大徳寺の瓦を手掛けていた瓦師について書き記しました。
ご一読いただければうれしいです。

竹村登茂枝


大徳寺の瓦屋根

 岐阜の林藤五郎商店という瓦屋に番頭として勤めていた、当社初代である父、四十一(よそかず)は、元々妙心寺と大徳寺の管長を歴任された後藤瑞巌老師が、岐阜駅近くのお寺の瓦工事をしていた林藤五郎の仕事を見て、この店に瓦工事を任せたい、とのお話から藤五郎商店の出張所を妙心寺南門前に構えたのが始まりと聞いております。

 その後、出張所から独立して竹村瓦商会となり、瑞巌老師のお口添えもあり、大徳寺や妙心寺の瓦工事を手掛けさせて戴く様になりました。当時は岐阜から沢山の職人さんが家の二階に寝泊まりし、母、千代子(二代目)もその世話等で大変だった様ですが、両親やたくさんの職人さん達の努力や皆様方のご支援の結果、大徳寺や妙心寺他、多くのお寺にお出入りさせて戴ける様になり、文化財の修復工事も数多く手掛けさせて戴ける様になりました。

 現在は現社長である主人と私、息子の三人と十名の職人さん達とで家族的な雰囲気ながらお寺様の屋根を守り、瓦葺き技術を守り伝えるために皆頑張っております。

 大徳寺においても数多くの建物を手がけさせて戴いておりますが、その中の山門の瓦等につきまして少しお話させて戴きます。

 現山門は享禄二年(一五二九)に一階が完成し、その後天正十七年(一五八九)に千利休が大修理を施し、二階楼閣を完成して「金毛閣」となりました。その屋根の瓦には各年代のたくさんの瓦師の名前を見ることが出来るのですが、この内元禄十五年(一七〇二)修理の際に造られたと思われる鬼瓦に写真のような箆書き(ヘラガキ)がありました。(写真①)

 箆書き(ヘラガキ)とは、鬼瓦などを造る時、造り終えてから1定期間乾燥するのですが、感想する前の生型の時に、竹や木の先の尖ったもので名前を書いたものを箆書きと言います。同様に刻銘とは名前等を木型で掘って生型に押したものを言います。鬼瓦を造っている瓦師が自分の造った瓦に対する責任と共に、多分、自分はこんなに立派な鬼瓦を造ったんだぞ、という気持ちも込めて箆書きしたのだと思います。

 この写真の箆書きによりますと、「福田加賀守藤原直賢」がその子である「福田加兵衛倚休」、「福田彦七郎」と共に親子で山門西鬼瓦を造ったことが判ります。この年には比較的大きな修理がなされた様で、この他にも様々な瓦に「福田加賀」の名前が見られます。

 この「福田加賀」については、今丁度文化財で修理工事中の黄梅院本堂の獅子口に写真の様な箆書きがあります。(写真②)この「ふく田彦太郎よ志な賀」は「福田加賀」の初代と思われ、聚楽第の瓦も手掛けた、と言う説もあります。

その「福田加賀」がこの時から約百二十年後の元禄十五年(一七〇二)の山門修理工事にも携わっており、その他にも経蔵、法堂、仏殿、等大徳寺の主要な建物で様々な年代に「福田加賀」の名前が見られます。(写真③)中には親子ばかりでなく、弟子も同じ建物の鬼瓦を造っていたりします。

その百五十年後の享保二十年(一七三五)にも同じ黄梅院本堂の獅子口の鰭を造っており、約百五十年間、「福田加賀」が大徳寺の殆どの建物の瓦を手掛けていました。

 その後を引き継ぐ様に約四十五年後の安永九年(一七八〇)に「鳥羽瓦大工 西村安兵衛」と言う瓦師が登場し、多くの瓦に箆書きや刻銘を残しています。(写真④)この他にも経蔵や各塔頭において「西村安兵衛」の名を数多く見ることが出来、明治中頃までの約百五十年間「福田加賀」に代わり大徳寺の瓦を手掛けていたことが判りました。

 この様に山門の瓦は主に「福田加賀」と「西村安兵衛」により手掛けられ、この両者がどちらも百年から百五十年近くに亘り代々その名を守り、大徳寺の瓦を手掛けていた代表的な瓦師であることが判りました。その後、昭和に入り、私供が入らせて戴く様になりました。

 親子や兄弟、弟子などその継承は様々な形であったと思われますが、長い間、その技術を継承し店を守っていくことは大変なことと思います。私共もこれらの瓦師に負けず、末永く店を守り伝えていきたいと思っております。


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大本山大徳寺様冊子「紫野」第50号

記事執筆時の参考資料

京都府教育委員会『重要文化財大徳寺山門(三門)修理工事報告書』1971年12月
京都府教育委員会『重要文化財黄梅院本堂附玄関修理工事報告書』1976年8月
※使用している写真は、上記修理工事報告書からの転載です。

執筆当時は・・・・

取締役 竹村登茂枝
平成26年4月京都女子大学大学院入学。在学中。・・・・でした。

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